2013.01.19 sat

フクシマ・センダイ・カルイザワ それぞれの地で考えること(第3回) 

フクシマ・センダイ・カルイザワ それぞれの地で考えること(第3回) 


髙木 亨

「人の住めない地域」が福島県内にある事を知っていますか?

 
(写真1) 日和山からの閖上地区(2012年12月撮影)

 同じ居住制限がかかっている津波被災地域とは少し状況が異なる、と感じていた。

 先日、カミさんに誘われて宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区を訪れた。沿岸部に位置するこの地区は、東日本大震災の津波によりまさに「壊滅的な」被害を受けた。神社が祭られた(そのお社は流失してしまった)日和山と呼ばれる小高い丘に立つと、一面の広い空間が広がる。そこには震災以前に人々の営みがあったであろう、その痕跡を残しながら、大自然の力をまざまざと見せつけられる。まさに言葉を失う(写真1)。その麓に掲示された震災前後の航空写真は、街が消えてしまったという、あまりに過酷な現実を視覚的に示している。

 その航空写真が貼られた掲示板には、かつての閖上地区の様子を伝える写真の他、地区の復興に向けての取り組みを知らせる新聞も合わせて貼られていた(写真2)。また、「閖上の記憶」という災害の伝承を目的とした施設の案内もされていた。震災を乗り越えて、前を向いて行こう、という意思を感じる事ができた。


(写真2) 復興に向けた「新聞」(2012年12月撮影)

 閖上中学校の入り口に建つプレハブ作りの「閖上の記憶」は、震災で亡くなった中学生14人の慰霊碑(中学校の校門内にある:写真3)を護る社務所のようなものとして建てられた。中には震災前の閖上の地図や被災時の様子などが展示されている。語り部の会も開催されている。また、地元ボランティアの方が説明をしてくれる。かつての暮らし、避難の状況、その後の展開など地元の方の視点で語られている。シンプルな展示とボランティアの方の語りがよりリアリティを持って伝わってくる。今は更地となった場所に街があり人々の暮らしがあったことを再認識させられる。


(写真3) 閖上中学校と慰霊碑(2012年12月撮影)

 閖上にいる間、ずっと福島県の立ち入り制限された地域のことが、頭から離れなかった。閖上になくて(少なくて)福島県とその周辺にあるもの。それは放射能汚染である。それは少なくとも閖上には「ない(感じられない)」。閖上周辺の農地では「除塩作業」がおこなわれていた。「除染作業」ではなかった。

 立入が制限されている福島県内の地域は、福島第一原子力発電所20km圏内の警戒区域。加えてフクイチから北西方向にある飯舘村、葛尾村、川俣町山木屋地区、浪江町津島地区。これらの地域はフクイチの爆発による放射性物質を含んだ雲の通り道にあたり、加えて雨・雪により放射性物質が降り注いだ地域である。そして、20km圏の北側に近接する南相馬市小高区である(図1)。


(図1) 2012年7月31日以降の警戒区域等の見直し(経産省資料を一部改変)

 私がいったことのあるのは、このうち、飯舘村と葛尾村、川俣町山木屋地区、浪江町津島地区である。川内村へ行く途中、よく通るのは山木屋地区と葛尾村である(写真4・5)。津波や地震の被害が少なかったこれら地域では、一時帰宅等で家の周りは片付けられ、人が住んでいてもおかしくない景色が広がる。でも、そこに住んでいる人はいない。まるで時間が止まったかのように。田畑には作物がない。除染が始まる前では、セイタカアワダチソウの「海」が広がっていた。そしてひと気の消えた人家。震災前までは牛が飼育されていた牛舎が残される。


(写真4) 山木屋小中学校への入口(2012年8月撮影)


(写真5) 葛尾村中心部(2012年8月撮影)

 山木屋地区は牧場が多く、乳製品の直売所もあり、そこに立ち寄るのが山木屋を通る人々の楽しみであったとか。しかし、今は人影もなく静まりかえっている。通過交通と警備のパトカー、モデル除染をおこなう関係者の姿を見るだけである。

 車で通過すれば、そのままそこに住めるのではないかと思えてしまう。しかし、空間線量計を持っていれば住めない理由がすぐにわかる。明らかに高い空間放射線量。しかし、目には見えない、臭いもしない、痛くも痒くもない放射能。これに汚染されるとどうなるか、その現実が福島県内には存在している。

 これら地域と閖上を対比させていた。比べるものではないことは、理解している。でもできなかった。閖上の状況を見て、復興に向けて動き出している事を感じた。更地になっていること。震災の記憶を遺そうと現地で取り組めること。前を向こうとしている姿が見えていること。そして放射能の恐怖がないこと。閖上地区も、集団移転か現地再建かで揺れ動いていると聞く。他と比べるものではない、各地域の個々の問題が被災地域には山積みとなっている。それでも、放射能の影響が少ない被災地域では、津波で流されたものは片付き、建物の基礎は取り除かれ、次のステップに向けての準備は整いつつあるように見える。

 それに引き替え、である。福島県内の空間放射線量の高い地域(放射能に強度に汚染された地域)では、未だにいつ帰れるのかもわからない。除染は進んでも、「帰りたい」といえる地域になるのかもわからない。「不適切な除染」も影を落としている。とくに環境省が大手ゼネコンに直接発注した、福島第一原子力発電所から20km圏内で実施する「直轄除染」が問題になっている(このほかに、20km圏外で各自治体が環境省の指針に従っておこなう除染もある)。一般の人の目が届かないところでは何をされているかわからない、といった不信感をさらに植え付けてしまっている。これらの地域は、とても再建に向けて動き出せるような状態にない。再建の前段階を整えるのに必死になっている。よく言われる「福島県は復興のスタートラインにも立っていない」「マイナスからのスタート」の現実がこの地域にある。

 ここまで書いて、カミさんと議論になった。仙台に引っ越してから、カミさんは被災した写真を洗浄して持ち主に帰すボランティアを手伝いはじめた。

 「福島と比べるベキでない、批判の矛先が津波被災地に向いている」。

 そんなつもりはなかったのだが、被災地の比較、復興の進展具合に目を奪われ、同じ被災地である事を忘れていたようである。「批判すべきは、こうした状況を作り出しているモノなのに…」。

 話の仕方が間違っていた。目指すべき方向は同じなのに、伝え方一つで大きく違ってしまう。反省する事しきりである。先月、仙台に拠点を移した。少し冷静に福島県を中心とする被災地を見つめ直す必要があると思った。


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著者プロフィール

髙木 亨(たかぎ・あきら)

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任准教授
博士(地理学)、専門地域調査士。
東京生まれ、東京近郊で育つ。
立正大学で地理学を学ぶ。
立正大学、財団法人地域開発研究所を経て2012年3月から現職