2012.07.11 wed

新聞1面トップ 2012年7月11日

新聞1面トップ 2012年7月11日


讀賣新聞

【記事】 神戸の医院が着床前診断

  • 神戸市の産婦人科医院で不妊患者を対象に、新型の着床診断が行われ、これまでに16人が出産したことがわかった。
  • 新型の着床前診断で、体外受精による受精卵を子宮に戻す前にすべての染色体を調べ、異常を見つけることができる。
  • 着床前診断は、異常の見つかった受精卵を除くため、命の選別につながるとの指摘もある。日本産科婦人科学会は会告(指針)で、重い遺伝病の患者を除いて認めておらず、今後議論を呼びそうだ。

(YOMIURI ONLINE http://www.yomiuri.co.jp/

【リグミの補足】 着床前診断は、「命の選別」につながる懸念があるため、日本産科婦人科学会は重い遺伝病や染色体の構造異常を除き、認めていません。新型の着床前診断は、より精度高く染色体異常を調べられるため、「選別」目的に使われれば、より重大な問題が生じると言われます。「科学的な可能なこと」と「親が望むこと」と「生命倫理」のバランスをどう取るか、熟議が極めて重要な分野のひとつです。



朝日新聞

【記事】 「線量ゼロ」の子ども被爆

  • 政府の原子力災害対策本部は昨年8月、東京電力福島第1原発事故による福島の子どもの甲状腺被爆について、調べた1080人の55%の保護者に「ゼロ」と通知した。
  • しかし放射線医学総合研究所が昨年3月の実測値から独自に計算したところ、一定の被爆をしていた可能性の高いことがわかった。
  • この結果について政府は、「誤差が大きく、不安を招く」として、今後も保護者に通知しない考えだ。

(朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/

【リグミのコメント】 原発事故後に国民の間に広がった「放射線不安」の根本原因は、「何がほんとうなのかわからない」ということだと思います。この思いは、福島県の人々にとりわけ大きいのではないかと想像します。例えば、福島の病院で、「甲状腺が腫れる」といった症例はどれぐらいあるのでしょうか。

原発事故との因果関係は、慎重な科学的調査研究で究明する必要があります。短兵急な発表で不安をあおりたくないという考えにも一定の意味はあります。しかし、それは結局は国民を裏切る行為となるでしょう。「事実」を積み重ねて、正しい認識、妥当な判断に到達するのが、成熟した民主主義国家の国民が成し得ることだと信じます。情報開示を進めて戴きたいと思います。


毎日新聞

【記事】 胆管がん、業務で発症

  • 大阪市内の印刷会社の従業員に胆管がんが多発した問題で、厚生労働省は10日、「胆管がんは、仕事の過程で発症した蓋然性(可能性)が高い」との見解を明らかにした。原因物質についても、同社で使用していた有機溶剤が「有力」とみている。
  • 同印刷会社では胆管がんを発症した12人のうち、6人の遺族らが労災認定(補償)を求めており、認定の可能性が高まった。
  • 厚労省は、今回の問題について、労災認定の時効(死後5年)起算点を通常の死亡翌日とせず、弾力的に運用する検討を始めた。

(毎日jp http://mainichi.jp/

日経新聞

【記事】 就活に薄日、内定率上昇

  • 2013年春の新卒採用で6月時点の内定率が5割を超え、直近の3年で最も高い水準となった。数年続く厳しい就職活動に改善の兆しが出ている。
  • 非製造業を中心に大企業が採用意欲を高めていることや、大企業偏重だった学生の意識が変化し、早い段階から中小企業への就職活動に取り組んでいることが大きい。
  • 政府も若年雇用の拡大に向け、中小企業の就職を後押しする。

(日経Web刊 http://www.nikkei.com/

【リグミから一言】 この記事には触れられていませんが、就活に親が口をはさみ、大企業や公務員など安定志向、ブランド志向を求める傾向があると言われています。親の世代が、「子どものため」と思って、実際には足を引っ張るのであれば、それはただのエゴでしょう。就活は、いろいろな意味で、日本の構造問題が凝縮するテーマだと思います。


東京新聞

【記事】 形だけ?の国民的議論

  • 将来の原発比率をどうするか、政府のエネルギー・環境会議が全国各地で国民から意見を聞く会が14日から始まる。
  • 「国民的議論を礎」にすると言いながら、時間はわずか1時間半で、意見を言えるのは各会場でたった9人だけ。「議論」というにはあまりにお粗末な内容だ。
  • 9月の民主党代表選前に結論を出そうとする政府の拙速さだけが目立つ。


(TOKYO Web http://www.tokyo-np.co.jp/

【リグミから一言】 「国民的議論」は、国民が「思い」を述べる場を設けることだけでは成り立ちません。正しい情報を得て、専門的知見にも触れ、いろいろな可能性を検討し合う「熟議」があって、はじめて「国民的議論」と言えます。